3年次、4年次と九州へのドサ周りの2年間を終えて、関東に帰ることになりました。5年次は北里大学病院での通常病棟勤務が5か月と救命救急センターローテーションが5か月の予定です。相模原市内にアパートを借りました。学生時代にも住んでいた近くで、米軍基地のすぐそばです。
このころから、銀座美容外科に行く機会が増え、美容外科の世界に復帰した感じです。3か月に1回程度は、父とゴルフする機会がありました。また、長男と妻を連れて行けば喜ぶので、年数回は銀座美容外科医院を訪問しました。話の内容は次回以降に繋がりますので、5&6年次について説明していきます。1991年6月から1993年3月です。
現在の臨床研修制度では、卒後2年間の研修指定病院でのローテーションが義務づけられていますから、3年次からが専門科での研修になります。後期論証研修とも呼ばれています。科目ごとに違いますが、通常は後期研修3〜4年の後に専門医の受験資格が得られます。私は1年次に大学で形成外科研修と麻酔科、2年次は関連病院で一般外科、3年次では整形外科の研修しましたから、2&3年次がと麻酔科が臨床研修のローテーションで1年次と関連病院での4年次と大学病院での5年次と6年次が形成外科での後期?研修に当たる訳です。その意味では当時の北里大学形成外科医局の研修カリキュラムは約?4年間の専門科である形成外科研修を出来る仕組みです。ところが、5年次のうち5ヶ月は救急救命センターローテーションが組まれました。つまり実は6年間のうち専門科である形成外科の研修は3年2ヶ月間です。それもいいかも知れませんし、足りないかも知れません。
5年次ともなると、それなりの手術症例が廻ってきます。しかもその年の北里大学形成外科医局には11人もの新人が入局して、大学病院には多くの1年次が勤務していましたから、手術症例の勉強に専念できました。とは言っても逆に私達5年次生も4人居て、6年次のチーフレジデントも2人居るので、何でも担当することは出来ません。まあ、難しい顔面の皮弁形成術画集に1例廻ってくる程度で、口唇裂や口蓋裂や顔面骨切りの手術の助手を何例か立ち会え、その都度勉強して行く機会を持てました。勉強とは、手術法を頭に入れるだけでなく、関連する知識も頭に入れることです。前回4年次に本を読みまくったといいましたが、実際に症例に当たって成書や解剖書を読み直すと、文字情報だけでなく、実物と並んで視情報として知識が頭に入るので、身になるのです。しかも前年に斜め読みしていた際に、項目の頁にタグを貼っていたので引き出し易かったのです。これは本当に引き出しを増やす勉強になりました。ただし研修5年次には、手術症例として専門医取得に置けるカテゴリー毎の代表症例にする程の難しい症例は、まだ担当させては貰えませんでした。そういうものです。
5年次の後半は救急救命センターローテーションでした。大変ですがかなり面白かったです。北里大学病院では救命救急センターが独立した科で、建物も広い別棟に有ります。しかも20床も確保されています。ここは3次救急といって、直ちに救命救急医療をするべき患者が救急車の判断で搬送されたり、県内の2次救急病院(=入院が必要か処置が必要な患者の為の病院)から移送されてきます。つまり、直ちに医療行為をしないと生命に関わる患者や、心肺停止して担ぎ込まれる患者や、専門科が多岐に渉り寄ってたかって医療をする必要が有る多発外傷患者などばかりが、昼も夜もなく来院します。
所属医師は、元来は各科の専門医だったのが、救急科の発足後移籍して専属になったベテランが数名と、その数年前からは卒直後に救急科に入局する医師も出始めていました。他にほとんど全科から、講師クラスが定期で出向し、その下に数名の助手クラスや研修医クラスがローテーションするので、かなりの大所帯です。100名近くは常勤しています。私達形成外科からは常時4人、講師クラスと助手クラス1名ずつと2年次までの研修医2名が出向していました。
実際には、私達研修医として出向した医師は1兵卒です。担当患者は一応専門科に合わせて充てがわれますが、多発外傷患者も多いし適当です。夜の当直は、だいたい3〜5日に1回は廻ります。月曜から土曜は日勤しますが、当直の日は朝八時前から一晩プラス翌日夕まで約36時間勤務です。夜は8名前後の研修医が当直していますが、多いときは夜間緊急搬送が10回を越えます。だからほとんど一睡も出来ません。搬送されて救命できそうだと、その晩当直している研修医が担当主治医に当てられます。順番を決めていることが多いのですが、専門科が優先します。時には一晩で2人以上を担当することも有り、あっち行ったりこっち行ったり、てんやわんやの晩も有りました。さすがにそんな時は翌朝担当科の研修医に申し送って、主治医を交代してもらいます。
そうなると今度は、専門科である形成外科救急患者の治療に専念するのですが、主に3つのカテゴリーを診ます。1、重症熱傷 2、顔面外傷および骨折、3、切断指と四肢外傷です。5ヶ月の出向期間に多くの症例経験を積むことが出来ました。何例か挙げます。1、全身の30%を超える2度以上のやけどでは直ちに救命医療を受けないとしに至る可能性があります。初期の体液喪失期を大量の点滴で補い救って、その後皮膚を補わないと菌が入って敗血症になるので植皮を繰り返します。可哀想だったのはお風呂に落ちた5歳の幼児。腹部から下が2度熱傷でした。当時培養皮膚の研究中で同意を得て適用したら、見事に治りました。他にも3人救えました。週に2回程度に分けて植皮術を繰り返すのですが、毎回血液と洗浄液だらけで大騒ぎです。周りは「また水遊びしている。」とか揶揄するのですが、こっちは体力の限り治療を繰り返してやっと醜状を残しながらも生命を救うのです。その後は形成外科の一般病棟に移ってから、形態の修正を繰り返して社会復帰を図るのです。2、顔面外傷患者の多くが、多発外傷患者です。というか顔面骨折や顔面創傷単独と考えられる患者は、心肺機能や意識レベルが正常であれば救命救急センターには搬送されないで歩行で来院するため、形成外科一般外来を受診するからです。多発外傷患者では、まず生命の危険が無いか、脳神経系の障害は無いかなどから診療して、顔面外傷の治療は後回しになります。顔面創傷(フロントガラスインジュリー)は近年はシートベルト着用で現象していますが、多発外傷する程だと顔面骨折を伴う患者は少なくないでした。出向中の5ヶ月で10例は手術に至ったと記憶しています。そのうち3例が私に術者が廻って来ました。既に経験を積んでいましたから、ちゃんと手術させてもらいました。顔面骨折治療はほとんど形態的な目的ですが、一例の患者には多発外傷といっても重篤で苦労しました。所謂P+ダイビング患者で、腹部外傷も骨盤子説も伴い、全身状態も良かったり悪かったりで、出向していた5ヶ月間付き合わされました。生命は取り留めましたが、顔面の変形は治しきれませんでした。3、切断指は直ちに血管縫合&再接着すれば生存させられるので、救急センターならお手の物です。8時間以内が鍵でゴールデンタイムといいます。ですから、昼間から、夕方に受傷されたら夜間の緊急手術になり、たいてい朝までかかります。ちなみに切断指は、再接着しても元通りの機能を取り戻すのは困難で、整容的目的が主体です。でも女性なら特に、重大です。出向中に3例来院しましたが、私が術者で完全生着した女性患者の一例には大変悦ばれました。
様々な医療に接して勉強できた5ヶ月でした。日々変化する患者の全身管理を覚えました。心肺蘇生のイロハを身につけました。心臓が止まって来た患者を生かすという究極の医療にも接しました。と入っても、さすがに数%の蘇生率です。でも、その中で歩行して帰れた人が居たのは嬉しかったです。一番すごかったのは、心筋梗塞でゆっくりしか動かない心臓をマッサージするのに、開胸心臓マッサージで30分間動かし続けて生かし続けたときです。手を離せばすぐ死亡するから続けましたが、これでは生きているのか死んでいるのかも判らない。でも、手術の手筈が整うまで続けてみました。いざ心臓外科医が見に来てから、「どうする?」と聴いてから、センター長が「無理かな。」と言って止めたのは残念でしたが、これも究極の医療だと思いました。
そんなこんなで忙しく、そしてためになった5ヶ月の救命救急センター出向でしたが、さすがに疲労困憊でプライベートライフの記憶は余り有りません。銀座に何回かは行ったのですが、何を話したかは記憶が有りません。少ない休日は家族生活に費やしたのでしょう。先日用があって、家族と久し振りに相模大野に行ってみたのですが、20数年前に長男と3人でよく行ったなとの記憶が蘇りました。デパートの子供売り場で楽しんだ画像が頭に浮かびました。
また長くなったので、5年次までとし、6年次は次回にします。1992年は美容外科の世界でトピックスが起きます。